京都大学 Kyoto University
福井謙一記念研究センターFUKUI INSTITUTE FOR FUNDAMENTAL CHEMISTRY
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高塚研のプロジェクト

研究論文リスト:

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研究の目的:

現代化学の分子描像の根幹を支えているのは,「電子が原子核の運動に無限のスピードで追随することができて,そのために,電子波動関数はほとんど常に定常状態(時間無依存状態)を取っていると考えてよい」とするボルン・オッペンハイマー(BO)近似である.BO近似は,安定分子に対しては精度が極めて高く(S. Takahashi, K. Takatsuka, J. Chem. Phys. 124, 144101 (14 pages) (2006)),「化学現象を牽引する力は主に電子状態によって支配されている」という観点からも極めて正鵠を得た理論であり,適用可能領域も非常に広い.しかし,化学反応が進行する過程で2面以上のポテンシャルエネルギー曲面が接近することがあり,分子がその領域を通過する際,電子状態と化学的性質が突然変化することがある.これが非断熱遷移であり,興味深い化学変化の多くは非断熱過程を経由して起きるため,化学動力学研究の中心課題になっている.この領域では,電子と原子核の間に,摩擦力に似た力が働き,電子状態の激しい変化が引き起こされる.即ち,BO近似が破綻するのである.

非断熱遷移理論の出発点であるLandau-Zener理論は1932年に発表され,現在も応用研究が盛んに行われている.しかし,「電子が原子核の運動に無限のスピードで追随する」という仮定がなされた当時と現代とでは,実験研究の発展のレベルが全く異なっている.たとえば,現存する最短のパルスレーザー幅は数十アト秒であって,これは分子内の価電子のタイムスケールより1桁程度短く,電子状態を動力学的に追跡する目的には十分速い.また,1015 W/cm2超の強度を持つレーザーは,分子内の電子や原子核の間に自然に作用するクーロン力を遥かに超える強い場を作ることができるが,今では現在では特殊なものではなくなっている.また,たとえば,電池などの電極表面などの環境における電子の動力学過程・速度過程や,生体中で起きる酸化還元反応や光受容体タンパクでの電子動力学では,非断熱電子動力学が究極の本質である.これらの系では,異なったキャラクターの電子状態が密集して出来る超高擬縮重系が存在しており,それらが原子核との非断熱相互作用を常時起こすことによって,分子振動単位で電子状態遷移が起き続けると考えられる.従って,従来の量子化学のようにポテンシャルエネルギー曲面の一面一面で化学を論ずることが意味を失ってしまうことがある.このような状況では,電子状態に対して静的な状態を条件として課すことは虚構に近い.電子状態に時間変数を露わに考慮して記述することが絶対に必要であって,BO近似のパラダイムの外にある新規な現象や法則性の追求が求められる.このように,「化学現象を科学する立場からの非断熱電子動力学」の観点からは,超高速・高輝度レーザー場などの極限実験によって造り出される電子波動関数の時間発展を追跡する超高速電子動力学に加えて,高縮重のため原子核と強く結合して激しく揺らぐ分子の電子状態における化学反応や反応場の開発などの未踏の化学研究領域の開拓は是非とも必要である.

我々は,ボルン・オッペンハイマー(BO)近似では扱うことができない非断熱電子動力学現象を研究対象とする.概念としての「超BO化学」を「BO近似からかけ離れているために,新しい現象や法則が出現する化学領域」とし,超BO化学を発展させる.主たる具体的課題として,(1)光合成の初期過程における水の分解,電荷分離とそれに引き続く電子伝達動力学とプロトンリレー,(2)原子クラスターと電解質溶媒の電子の授受等のダイナミクス,(3)生体膜を通過して一方向に輸送されるプロトンポンプの動的電子機構の解明等,を取り上げている.また,(4)これらの背景にある「超高擬縮重電子状態が原子核運動とカップルして激しく大きく揺らぐ電子状態の化学反応と,それが提供する反応場の解明と設計」を目標とし,新たな研究領域として「非断熱電子化学」を発展させてきた.また,「非断熱相互作用による対称性の保存と破れの電子動力学」,「凝縮系での非断熱電子動力学」,「多光子イオン化,多重イオン化,自動イオン化に依って生成する高励起電子状態の分子内崩壊過程の非断熱動力学」「非断熱相互作用をする電子と原子核の波束の同時決定の近似理論」などをも展開している.   

研究の成果:

超BO化学を具体化するために,「原子核とkinematicに結合して運動する電子波束と,分岐しながら電子波動を運ぶ原子核の運動(path branching)の理論」を創成し発展させてきた.本課題研究では,これを元に,従来の方法や考え方では解決できない基本的な問題(非断熱電子動力学)に挑戦するため,方法論とその応用方法の両面において,根本的なアプローチをとっている.以下,研究経過と成果を「現象の解析」「新規現象の予測」「さらなる理論的発展」に分けて述べる.

I.現象の解析

具体的なシステムの解析の例として,Branching-path上での光電子分光の理論計算や,非断熱化学反応における電子流解析,1-3-butadieneの光異性化における,置換基による対称性の破れ(レチナールの光異性化による内部回転の研究の基礎として),などの現象を対象としてが,ここでは水の光分解の動力学の研究から得られた一連の成果について述べる.

1)水分子の光分解における電荷分離の動力学的原理と機構の解明

植物の光合成系に関わるPhoto System II (PSII)における酸化マンガンクラスターによる水分子の分解と酸素発生,2H2O + 4hν → 4H+ + 4e + O2及び工学的な水の光分解への関心に基づいて,簡単なMn酸化物とアミノ酸残基からなる系において,Mn酸化物を光励起することによって,多重の円錐交差を経て,プロトンと電子波束が異なる経路を通ってアミノ酸残基に到達し,そこで電荷分離(H++ e)を起こすメカニズムを同定した.これをCoupled proton electron-wavepacket transfer (CPEWT)と呼ぶ.このメカニズムは,多数の計算例でもほぼ例外なく起きており,有機系,生体系における電荷分離の基本的なメカニズムになっている可能性がある.

この研究では,分離した電荷の再結合を妨げる要素として,Mn酸化物につけたCa原子の役割と,プロトン・電子受容体の分子構造をY字型に分岐させることが有効であることが分かった.

水分子の分解過程におけるマンガン酸化物による光触媒サイクルの解明と提案

 上図のように,Y字型に結ばれた電子受容体とプロトン受容体が,水分子を挟んでMn酸化物とつながっており,さらにその水分子がバルクの水と水素結合ネットワークで繋がった系を考える.この系では,上記のCPEWTが電荷分離機構として働くことを非断熱電子動力学計算で,明らかにした.さらに,この系にプロトンと電子のバッファーを加えて,電荷の調整の役割を果たさせると,4光子過程で,2H2O + 4hν → 4H+ + 4e + O2を実現する光触媒サイクルになりうることを明らかにした.また,その際,酸素分子は,左図のEPRで示した水分子クラスターから過酸化物の中間過程を通して生成する.水分子の光分解過程の理論研究としては,画期的な提案である.今後の実験の検証を待ちたい.

3)分子衝突によって有機される電子基底状態における電荷分離動力学の発見

植物では,光吸収はPSII以外で起こり,水の分解は電子基底状態で起きると,信じられている.これは量子力学的には,まったく信じがたいことであって,これが真実であるならば,何か特別の「化学原理」が存在するに違いない.そこで,左図のシステムに,セミキノンカチオン(SQ+)を基底状態で衝突させたところ,上のEAからSQ+へ,次いで,EPDから穴ができたEAへと電子が順次起き,さらにEPDからプロトンリレーを通して,PAにプロトンが伝達されることが分かった.これは,基底状態でもSQ+の接近差表情に円錐交差が生まれることによる.この機構をcollision induced charge separation と呼ぶ.

4)電子やプロトンの一方向流れを駆動する反応ラチェット機構の発見

 上のcollision induced charge separationでは,分離される電子は逐次的かつ非可逆的に一方向に移動する.ここには,coherentとdecoherentなダイナミクスが作り出す一方向性の電子流を可能とする,分子レベル(化学反応レベル)でのラチェット動作原理が内在すること,およびその機構も明らかにした.この原理は,プロトンの一方向性流れのラチェットとしても動作する.生体分子膜のプロトンの一方向性移動とどのように関連しているか,さらに追跡中である.

5)プロトンの一方向性流れの動作原理に関連して,AQP2(アクアポリン2)において一方向的流れをすると考えられている水輸送チャネルを考える.AQP2には、極めて半径が小さくなる箇所(His172とArg187で囲まれた領域)があり、そこが水透過効率を制御していると考えられている.一般的な自由エネルギー地形解析からは見えてこないことであるが、我々のMD計算からは多くの時間帯でこの領域に水分子は存在しないことが分かった.このように安定な2つの水素結合状態を結びつけるメカニズムこそが水分子輸送効率を決める鍵になっていると考えられる.このメカニズムの詳細の研究は現在進行中であるが、2つの安定した水素結合状態をそれぞれ別の断熱状態と見なし、ゆっくりとしたタンパク質環境の変化の中で2つの状態間で時々起こる遷移を非断熱遷移とみなすことができる.このような観点から、最終的にタンパク質の水輸送に新しい理論を与えたいと考えている.

II.新規現象の予測

 我々でなければできない現象の解析のほかに,実験に先駆けて,新たな化学現象を予測する研究にも注力している.特に,超高擬縮重状態としてのボロン原子クラスターの非断熱電子状態の複雑さは,極めて興味深い.24原子程度のボロンクラスターは,数百番目くらいの電子励起状態に上げても,イオン化も結合乖離もしない電子状態が密集している.この領域では,たとえ純粋な断熱励起状態に励起できたとしても,フェムト秒のオーダーで,非断熱結合によって他の電子状態に「拡散的」に広がっていく.このような状態の結合様式は,化学者の知らないものであり,様々な観点から解析を進めている.また,この状態に,強い結合を持つ分子(例えば窒素分子)を埋め込んでも直ちに分解するなど,興味深い反応場を作っていることが分かる. 以上のように,我々でなければできない化学領域の開拓が着々と進んでいる.

III.さらなる理論的発展

1)多次元非断熱効果と対称性の破れ

 高塚が定式化した非断熱電子動力学の基礎理論において,原子核に働く力として,通常のHellmann-Feynman型のもののほかに,新たなものを発見した.これは,多次元系でのみ表れ,磁場中の荷電粒子に働くローレンツ力と同様な性質を持っており,電子が作る電子の非断熱場と原子の速度場ベクトルの外積に働く.この力は,量子力学的な確率をもって,鏡映対称性を破る働きをすることができるという,画期的な性質を有する.

2)溶媒中の非断熱電子動力学

 注目する分子系が溶媒中あるいは固体表面上などにある時,分子系だけが吸収し,溶媒には透明な波長のレーザー光を照射することで,反応を開始させることができる.特に,非断熱電子動力学の立場から,電子移動反応に興味がある.この際,溶媒を扱う統計力学(平衡,非平衡を含む)に新しい考え方を導入し,反応系とのエネルギーやエントロピーの出入りの中で起きる反応動力学の追跡を行う理論を構築した.このようにして,非断熱電子動力学は,溶媒中の反応にも拡張された.特に,電子移動反応に注目すると,Marcusの古典的理論を,はるかに超えた理論になっている.

3)複素自然軌道を使った分子からの電離過程の動力学

 非断熱電子動力学では,時間発展する電子波動関数が,複素関数であるという点でも,BO近似に基づく従来の量子化学から得られる波動関数(通常は実関数)と大きく異なっている.これは,前者には時間進行情報が含まれているためである.このため,得られるnatural orbital(自然軌道)も複素関数であり,さらには同位体効果まで反映する.自然軌道の複素性を使って,分子内の電子流(flux of probability density)を計算できるので,適切な条件を設定して,分子から出ていくイオン化量のダイナミクスを追跡できる.これを適切に定式化したうえで,多光子イオン化,多重イオン化,自動イオン化によって生成する高励起電子状態の分子内崩壊過程の非断熱動力学の実時間追跡を可能にした.

4)高塚と高橋が確立した多次元量子波束動力学を半古典的に記述する理論(Action Decomposed Function)に立脚して,量子化機構の解明に取り組んでいる.量子化を行う際に障壁となる,従来のWKBレベルの原始的な半古典手法では再現できないゼロ点振動周辺のエネルギーの,量子力学的結果との差異を詳細に調べ,非古典軌道・量子軌道をあらわに記述できるように多次元波束動力学理論の改良を進めている.

5)古典力学における非断熱過程

 分子系は,電子,原子核から始まって,クラスター,高分子・タンパク,微粒子,などの動力学的階層性(現象の速さの時間スケールによる階層性)を持っている.この速さの階層性を統一的に扱う準備として理論を構築する中で,古典力学にも実は,非断熱過程の階層性と呼ぶべき現象が理論的に明確に表現できることを,明示的に明らかにした.量子論と古典力学における非断熱性の比較研究という意味でも,極めて興味深いものである.

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